とらねこの鉄道写真館

国鉄最後の日


「国鉄さよなら列車出発式」の看板

20:59特急「いなほ14号」は新潟に到着。
ホームには「国鉄さよなら列車出発式」の看板が掲げてありました。
今まで通ってきた駅ではこういった看板を見なかったので、
(見てる余裕が無く、見過ごしていたのかもしれませんが)
この看板を見た時、「あぁ、とうとう終わるんだなぁ。」という実感が込み上げて来ました。
「さよなら列車」はもう出てしまったのでしょうか? それともこれから?
調べるのを忘れていました。

『いま 輝きの明日に向って・・・』

職員の人達は、どんな思いでこの日を迎えたんでしょう。
どんな事を考えながらこの看板を取り付けたのでしょう。
期待と不安が入り混じった、とても「重い」言葉だと思いました。

私達は「夜行列車」に備える為、一旦改札を出て夜食を買い込みます。
午後9時を廻った新潟駅は駅の中も外も人でいっぱいでした。
夜食を買い込んで再び改札を通り、国鉄の最後に乗車する
急行「きたぐに」のホームに行くと、たくさんの人で溢れていました。
「座れない」と思いながら発車標をよくみてみると・・・
ありました!「きたぐに」にも続行の「臨時」が!
発車は定期「きたぐに」の10分後。しかもまだ入線していません。
私達は急いでホームを移動し、臨時「きたぐに」の入線を待ちます。
臨時「きたぐに」のホームはまだ人が集まっていません。座れます!

臨時急行「きたぐに」


臨時急行「きたぐに」が入線しました。
12系客車です。

往年の「きたぐに」とまでは行きませんが、
国鉄最後の乗車にふさわしい車両です。

車内に入ると席はすぐに埋まりました。隣のホームの急行「きたぐに」が発車すると、
ますます人が増え、通路の人は次々と床に新聞紙を敷いて、夜に備えます。
10分後、私達を乗せた臨時急行「きたぐに」は、新潟駅を静かに発車しました。

時計をみると23:50頃。列車が長岡を過ぎた辺りだったでしょうか。
「きたぐに」車内放送が流れました。

ご乗車ありがとうございます。
長い間、
ご利用いただきました「国鉄」は
本日あと○分をもちまして、
その歴史に幕を閉じる事となりました。
4月1日、午前0時より新しく・・・・・

「きたぐに」の走行音に混じった2分弱の放送でしたが、
私達にとって、とても貴重な放送でした。
数分後には「国鉄」「JR」に変わろうとしています。
放送が終わると、車内に少し歓声があがっていたような気がします。

放送が終わって、持っていたラジオをつけて見ました。チューナーのダイアルを回すと
かすかに音が入ります。TV放送だったと思います。雑音がひどく、聞き取りにくかった
のですが、確か、「梅小路機関区」からの放送でした。

私達は時計を見合わせ、カウントダウンを始めます。
乗り合わせたほかの人も、お互いに時計を見て数を数えています。

30秒前・・・、20秒前・・・、10秒前・・・、3、2、1・・・

日付が変わりました。今、この瞬間から「国鉄」「JR」となりました。
つけたままのラジオからは、梅小路の蒸気機関車たちがいっせいに
「汽笛」を鳴らしているのが聞こえました。
とても重く、長い「長笛一声」でした。

普通カウントダウンが終われば歓声が上がり、お互いに喜び合うのでしょうが、
この時の心境は複雑でした。新しく変わる「JR」というものが、この先
日本の鉄道をどう変えていくのか・・喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか・・・
15年以上経った現在にして思えば、JRになってから「鉄道技術」も
飛躍的に発達し、私達の移動手段の幅が拡がったのは確かですし、
それはそれでよかったのかも知れません。

歴史の瞬間をまたいだ「きたぐに」は何事も無かったように走り続けています。
私もまだ、変わった事に対する実感がありません。

最近になって読んだ本の中に「時刻表昭和史」という本がありまして、
その中に終戦の日の事が書かれてあった部分がありました。
終戦の日、国民全員が聞いたとされているあの放送が流れていた
あの瞬間、鉄道は何事も無く動いていたそうです。「国鉄」が「JR」に
変わったこの瞬間も、何事も変わること無く走り続けている・・・
後になって、この時もそうだったのかと思い出します。


実感のないまましばらくすると再び車内放送が・・・

日付が変わりまして、
「国鉄」は新しく「JR」としてスタートいたしました。
今後とも「JR」をよろしくお願いいたします。
車掌は東日本旅客鉄道株式会社、○○運輸区の○○です。・・・

まもなく「直江津」です。・・・・

先ほどの案内も、今の案内も、車掌さんは淡々と仕事をこなしています。

直江津駅

直江津に着きました。発車までしばらくあったのでホームに出ました。
1番最初に目に付いたのはこの幕でした。直江津は東日本と西日本の「境界駅」です。
確かに「国鉄」は分割されていました。だんだん実感が沸いてきました。


しばらくホームでうろうろしていると、数人の駅員さんが、
「きたぐに」の車両に近づいて何か作業を始めました。
何をしているのか様子を見てみると、側面に車体と
同じ色のシールが貼ってあり、順番に剥がしていました。
シールの下から「JR」のロゴが出てきました。
あらかじめ用意していたようで、シールで隠していた事など、
新潟で出発する時は全く気づきませんでした。
12系もJRに変わった瞬間です。
初めて見た「JR」のロゴ

再び車内に戻った私達は、いつのまにか眠ってしまい、気が付くと米原でした。
時計を見ると、8:00頃。定期の「きたぐに」は、もう大阪に着いているでしょう。
「謝恩フリーきっぷ」の有効はこの列車の終着駅までなので、
少しでも長く乗っていられる事ができ、少し得した気分です。
米原の駅でも15分ほど停車していました。通勤ダイヤの隙間を縫って走っているようで、
東海道本線に入ると極端に遅くなりました。
そもそもこの臨時「きたぐに」、 時刻表にも載っていない列車だったので、
大阪駅に到着する時間を知りませんでした。車内アナウンスでも
到着時刻の案内はありませんでした。他の乗客も知らなかったと思います。
京都で少し乗客を降ろした「きたぐに」は、新大阪に到着。新大阪でも長時間停車です。
いつ発車するかわからないので、ここで降りる乗客もいました。
普通列車や快速列車が私達の隣を次々と発車していきます。
ようやく発車した臨時「きたぐに」10:30頃、無事に大阪駅に到着。
2日前の大阪駅とは、確かに違う「風」が吹いていました。

おわり




今回の「旅行記」は、写真などの資料が乏しく、文章と絵でごまかした部分もあります。
「当時の写真」を期待されていた方には物足りなかったかと思います。
申し訳ございません。
「旅行記」作成にあたって、キツネくん(キャシャ−ンさん)からとても貴重な
資料をお借りしました。列車ばかり追いかけている私の写真とは違って、彼の写真は、
当時の天王寺駅の様子や、記念撮影などの人物が多く含まれている写真が多く、
「天竜峡駅の記念撮影」や、「新幹線内の写真」など、私にとって、今まで忘れていた
昔の記憶を鮮明に蘇らせてくれるような、とても貴重ないい写真だと思います。
「私も見習ってこういう写真を撮らなければ」と思わせてくれた写真でした。
貴重な資料を提供していただいた事を、この場を借りてお礼申し上げます。